<はじめに>
約3時間。ロング・ロング・インタビューになりました。高座の時と口調も雰囲気も何もかも同じで(着物じゃなくTシャツだったくらい)、これは役得だなと思いながら、ずっと、小はぜさんの長い長いまくらを聞いているような気持ちでした。お話しいただいた小はぜさんにはご負担だったことでしょうが、取材陣にとっては大変心地が、耳心地が良い時間でした。ありがとうございました。ぜひ、お読みいただければ幸いです。(くがらく編集部)
生まれて初めて聞いた落語に衝撃。「落語ってすごい」
― 「チケットを譲り受けてたまたま見に行った町田市民ホールでの落語」、との記事を読みました。その時のことを、教えてください。それまでは、落語に興味はなかったのですか?
母からチケットをもらったので一緒に行ってみたんです。そしたら、小三治師匠(※)の独演会だったんです。衝撃を受けて家に帰って母に「小三治って知ってる?」って聞いたら、「あぁ、さんちゃんね」って。さんちゃん!! 「よくテレビに出てて、さんちゃん、さんちゃん言われてたんだよ」って。
一日7~8時間、運転する間、ず~っと聴いてるもんですから覚えちゃいまして。そのストーリーを。で、同僚に電話して「こんなストーリーの噺があるんですよ」みたいにしゃべってたら、もうそこで大きな勘違いが(笑)、「俺、(落語)できるんじゃないの?(笑)」みたいな。そこに行きついてしまって。それからですよ、生で落語というものを聴きたくなって、実際に寄席に行くようになりまして。
― 小三治師匠で印象に残っている噺、どんな部分、あるいはどんな話術に衝撃を受けたのでしょうか?
「うどんや」です。噺の最初(の部分に)は好印象はなかったです。(うどんやって)登場人物が酔っ払いでしょう。うちの親父を彷彿とさせるので、(なんだか嫌な噺だな…)と思って聴いていたんですよ。それが第一印象。そしたら、あの展開でしょう。小三治師匠を介して人間の喜怒哀楽が高座に表れてくるわけですよ。笑いもさせちゃうし、しんみりもさせちゃうし。しーんとしてる高座と会場に響く、師匠のすするうどんの音。その所作とか。もう、目の前が真夜中の江戸の冬の町なわけですよ。そこに来て、あの下げ(落語のオチ)でしょう。もう、がーん!と頭をやられちゃった感覚でした。落語って、すごいー!っていう(笑)。
― 有名な小三治師匠の長いまくらについて(小三治師匠のまくらは長いので有名)
個人的には、小三治師匠は、長いまくらをそんなに好きなわけじゃなかったような気がしているんです。お客様が喜ぶから敢えて長くしていただけなんじゃないかなぁと思っています。うちの師匠(柳家はん治 ※)も「昔から長かったわけじゃない。無骨だったんだ」って言っていましたし、何度もお供させていただいて、まくらなしで噺に入った時の格好良さったらなかったですよ。
まくらはまくらで考えて、噺は噺で考える。頭が二つないといけない、大変な作業。って僕なんかは思っちゃうんですよね。僕が(まくらで)あまり自分のことを話さないのは、それが僕的には大変であり、噺に集中したいからなんですよね。日ごろから人間観察して、まくらに使えそうなネタ探しをしてはいませんし。
雑誌「ユリイカ」だったかなぁ、(春風亭)小朝師匠が小三治師匠のことをお話になっていて。ある会でのこと。お客様を静まらせるために、敢えてず~っと出囃子を演奏させて、客席をシーンとさせてから高座に上がってきた(自分に集中してもらうために)みたいことをおっしゃっていました。(編集部注:下記、引用部分ご参照ください)
寄席で時間調整のために高座時間を詰めなきゃ(短くしなればいけない)場合、「(噺を詰めるくらいなら)まくらを振らなきゃいいじゃん」っておっしゃっていた師匠もいらっしゃいました。
いちばん印象に残っているのは、寄席で小三治師匠の前の人がすごく受けていて、楽屋にも笑い声が聞こえてくるくらいだった。その人の高座が終わっても、小三治師匠はずっとネタ帳を見ていて立ち上がらない。その間、出囃子が何杯も鳴っている。普通の人は出囃子が鳴ったら楽屋を出るんですよ。 けど小三治師匠はなかなか立たない。やっと立ちました。袖まできた時にはもう一分近く経っている。そこでまた前座に「おい、ちょっとネタ帳持ってきてくれ」と言う。ネタはとっくに決まっているんですよ。それでまた二〇秒か三〇秒かかかる。わかったとネタ帳を戻して、その時には高座が空になってメクリが「小三治」となった状態がもう一分半くらいになっている。お客は前の笑いが完全に収まって、気持ちが「あれ、小三治なんで出てこないの」というほうにシフトしているわけです。太陽が当たるまで待って、そこに出てくる、というやり方。すべてにわたって生き方、考え方が月型なんですよね。自分にライトが当たってから動く人。自分の持っているキャラクターを理解したうえで、効果を上げるには月戦略でいこうと。
※ 「ユリイカ」 2022年1月号 特集◎柳家小三治:p.125 「芸人の月」 インタビュー:春風亭小朝 聞き手・構成:和田尚久 より抜粋
※ 柳家小三治(やなぎや こさんじ):十代目柳家小三治。落語協会第10代会長。2014年春の叙勲で旭日小綬章受章。同年10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。「高田馬場の師匠」とも呼ばれた。小はぜさんの大師匠。
※ 柳家はん治(やなぎや はんじ):小はぜさんの師匠。十代目柳家小三治の弟子。
※ 春風亭小朝(しゅんぷうてい こあさ):五代目春風亭柳朝の弟子。
※ 雑誌「ユリイカ」:青土社から刊行されている月刊誌。ユリイカ2022年1月号で柳家小三治を特集として取り上げた。
― どのように入門を?
仕事が土日休みでしたので、その土日を使って、小三治師匠のところに行っていました。行っていましたというのは、「自宅を探し当てる」ために通っていました。
― まるで探偵のようですね
入門をお願いするに際して、手紙を書いて送るというのは、なんか違うなと思っていましたし、かと言って当時、寄席の高座に頻繁に上がっている時でもなかったので(寄席の前で出待ちをして入門をお願いするというよりも)、自宅の前で、と思っていました。
― どうやって探し当てたのですか?
まず、小三治師匠の本を読み漁りました。例えば、バイクに乗っていた当時の本を読むと、早稲田通りがどうとか、明治通りがどうとか書いているわけですよね。そこで新宿駅から歩いて高田馬場の方に向かって歩いて、「あ、ここの建物は本に出てきたぞ」という感じで、おおよそのアタリを付けて歩き回りました。いやぁ、見つかりませんでしたね。
― どれくらいかかりましたか?
土日を使って8回は探しに行きました。2か月くらいですかね。それでもちっとも見つからない。そんな時、ある本に、小三治師匠の親戚の方がはんこ屋さんをやっていたと書いてありまして、「よし、これからははんこ屋さんを探そう」という方針に変えまして。
― 見つかりました?
一軒あったんですよ。でも、高田馬場からは離れている場所にあったんです。違うかもしれないけど、こっちは手掛かりがはんこ屋さんしかないでしょう。一か八かで飛び込んだんです。そしたら…
― そしたら?
親戚の方がやっているはんこ屋さんではなかった…
― 残念…
しかし、ですね、その親戚の方がやっているはんこ屋さんに以前務めていた方のお店だったんです。
― おお!
そこでいろいろと話しをしてみたところ、僕が探して歩き回っていたところに(小三治師匠の)家があったことがわかったんです。なんども通り越していた場所でした。
― では、ようやく晴れて弟子入り志願…
とは、なりませんで。そこから出待ちですね。
― あぁ、そうでした。まだ次がありました
出待ちのためにそこからさらに1か月は待ちました。(いくら自宅がわかったとは言え)ご自宅のインターホンを僕が押すのは絶対にダメだと思っていましたので、ひたすら出て来るのを待ちました。毎回、お昼から日が暮れる頃までずっと立っていました。ちっとも出てこないんですよね。土日だったので、地方の落語会に行っていたんだと思うんです。今にして思えば。
― そして、ついにその日が
日曜日でした。夕方ごろ、お会いできました。そしたら「明日、また来なさい。ちゃんと話を聞くから」と。
― よかったですね
(勤めていた会社の)上司に電話して「明日は午前中で上がらせてください(早退)」とお願いして、都合をつけて。翌日、喫茶店でお話をさせてもらいましたけど、ずっと平行線でした。「弟子にしてください」「いや、俺はもう弟子はとらない」「じゃあどうする」…沈黙。ずっとこの繰り返しでした。
「そもそもお前は落語を知らない。まずは落語を聞け。俺(小三治)のだけじゃなく、他の師匠の高座も見ろ、昔の落語家の高座も聞け。それでも、まだ俺のところに来たいというのであれば、俺の弟子のところに行けばいい。ただお前が来たことは、弟子の誰にも言わないから。そん時、また今日みたいに突然押しかけろ。あとは知らない」ということでした。
チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。小はぜさんの本音、素顔。そして落語観。
柳家小はぜ 独占インタビュー(1)