はん治師匠との不思議な縁。

それから、しばらく、小三治一門も含め、いろいろな師匠方の高座を見て、CDで昔の名人の高座も聞いてみて、最終的にうちの師匠(柳家はん治)だ!と決めて、弟子入りすることにしました。

池袋(演芸場)で見て、実際に声をかけたのは鈴本(演芸場)です。演芸場の前で待っていまして、(はん治)師匠が出てきたんですけど、告白みたいなものじゃないですか。ドキドキしちゃって。足が竦んで声がかけられず、致し方なく跡をつけた次第です。そしたら、うちの師匠、上野の立ち飲み屋さんに入っちゃって。その日は相撲の千秋楽の日で。師匠が立ち飲み屋に入ったのが15時半くらい。それから最後の一番まで、約2時間半。外で待っていました。また前(小三治師匠の時みたいに)、だいぶ長い間、逡巡してました。足が竦むってのは、ああいうことを言うんですね…

― ふんぎりをつけて

2時間半も待っていて、これで行かないわけにはいかない。と覚悟を決めて、声を掛けました。そしたら師匠が「きみか!」っていうわけです。驚きました。「きみが(小三治)師匠のところに行った日に、俺に電話が来たよ。話は聞いてるよ」って言うんです。

― (小三治一門の)他の師匠方みなさんに回覧というか、伝達してくれていたのですね

それが、そうじゃないみたいなんですよ。小三治師匠が連絡したのは、どうやら、うちの師匠(柳家はん治)だけみたいなんです。今となっては真相はわかりませんが、不思議な縁だなと思っています。

ただ、(小三治師匠と)同じことを言われました。「1か月やるからもう一度考え直しなさい。そん時に、俺のところにくるか、他の師匠のところに行くか、それはどっちでもいいから。俺も1か月かけて、うちのかみさんを説得(弟子を取る、他人を一人預かるということは師匠の側にとっても覚悟や負担が必要となる)するから」と。

で、1か月後ですよ。今度は浅草で。また、足が竦んじゃって(笑)。まごまごしていたら、師匠、今度は(浅草)演芸ホールからパチンコ屋に入っちゃって。1時間半くらい、外でまた待っていました。「じゃぁ、親御さんと一緒に来なさい」ってなって。それでようやく入門が許された感じですね。それが2011(平成23)年8月頃のことです。芸歴では入門は12月になっていますが、それは落語協会に履歴書を提出した日という意味です。それが正式なので。僕は8月から12月まで、声がかかった時に師匠のところに行っていました。12月1日、一門が小三治師匠のもとへ集まる日(お歳暮)、そこで一門の師匠方に紹介され、大師匠に許可をいただいて、正式に入門となりました。

会社員時代の話。

僕は、1月いっぱいまで仕事がやめられない状況でしたので、落語家として働きだしたのは2月なんですね。今日のインタビューも2月ですし、なので2月ってなると色々と思い出します。

― まるで探偵のようですね

入門をお願いするに際して、手紙を書いて送るというのは、なんか違うなと思っていましたし、かと言って当時、寄席の高座に頻繁に上がっている時でもなかったので(寄席の前で出待ちをして入門をお願いするというよりも)、自宅の前で、と思っていました。

― (会社側が)辞めさせてくれなかった?

そうですね。

 ― 医療系とのことですが、どんな会社にお勤めだったのですか?

カテーテル(体内に挿入して、検査や治療などを行うための柔らかい細い管)等を扱い、それを医療機関に収める会社に勤めていました。何件か担当の病院を抱えていて、お医者様に製品のアドバイスをしたりですとか。

― MR(エムアール。Medical Representatives。医薬情報担当者の略称)だったのですか?

いや、MRは製薬会社のスタッフです。僕は医療器具の会社員ですから。

― やはり、辞められたくなかったから、引き留めを

医療業界って人の出入りが激しいんですよ。なので、僕の場合、「会社辞めます」って言った時は、「同業のライバル会社に引き抜かれたんだな?待遇に不満があるのか?なら、待遇を改善するから辞めないでくれ」って言われました。それで実際、少し多めのボーナスをいただいたりもしました(笑)。

― 落語家になるから辞めるとは言わなかった?

「突然、落語をやりたくなったので辞める」とは中々言いにくかったんですよね。実際、会社では、そういう人間(落語好きでもないし、人前で話をするとか、みんなを笑わせるのが好きだとか)じゃなかったので。どっちかっていうと「え?いたの?」ってくらいの存在感の薄い人間でしたから。

「一身上の都合により辞めさせてください」「辛いの?」「いや、辛いわけではありません」「じゃなんで辞めるの?辞めなきゃいいじゃん」「いや、一身上の~」みたいな会話を延々と(笑)。

古典一筋。

― 2017年頃に、俳句の会(駒込)の高座で初めて小はぜさんの落語を聞いて以来の変わらぬ感想ですが、まくらも高座も古風な印象です。でも、しっかりお客を沸かせる。今どきの(若手)噺家さんのような現代的な?くすぐりも入れてこないで。あまり「入れごと(会話の中にギャグや時事ネタみたいなものを入れること)」などせず、愚直なまでに。なにかしらポリシーなどお持ちですか

そんなに真面目ではないと思いますが、基本的には自分がやりたい、教わりたいなという噺を教わっています。そこには、そもそも僕の「好き」しかないわけです。「その師匠が好き」「その噺が好き」っていう気持ち。なので、そこを大事に、大切にして、まず覚えて、体に入れて、やりながら少しずつ自分の口調や噺にしていくくらいだと思います。

先日も、ある真打の師匠とお話をさせていただいて、「面白くなるのであれば(アレンジしてみるのも)いいけど、面白くねえだろ(そのまんまの方が面白いじゃねえか)」と仰られていました。「面白い」の解釈も色々あると思います。

また、表と裏というか、片っ方があれば、もう片っ方がある。「いまはそりゃ確かに面白いかもしれない。けど、それはその先も面白いの?」という思いもあれば、「今を生きているんだから、いま面白ければいい」という考えもある。「歳を取ったら歳を取った時なりの落語になるから、いまの若い時の落語でいい」という師匠もいらっしゃいますし。

ただ、僕が思うのは基礎や土台ができていて初めて、アレンジや“崩し”ができると思うんですね。

うちの師匠は、(桂)文枝師匠(※)から教わった創作落語をやります。『妻の旅行』とか『ぼやき酒屋』『鯛』『背なで老いてる唐獅子牡丹』とか、いわゆる新作落語。でも全部、文枝師匠のそれとは違うんですよね。師匠の落語になっています。それはうちの師匠が古典落語をずっとやってきたうえで創作落語をやっているからだと思うわけです。落語の骨格、どんなネタをやってもぶれない。

僕はまず、そのくらいに土台をしっかり築かないと、今の師匠方、名人と呼ばれる方々の足元にはとても及ばないですよね。ついこの間も、真打の師匠の高座を袖(客席から見えない舞台両脇の奥の場所)で聴いていて打ちのめされるような気持ちになりました。

※ 桂文枝(かつら ぶんし):6代目 桂 文枝。吉本興業所属。社団法人上方落語協会第6代会長。桂文枝を襲名するまで45年に渡り「桂三枝」。上方の創作落語の第一人者

― どういうスタイルで話を覚えていくのですか?

僕は書きます。最初にバーっと聞いて書いて、そのあと清書して。僕が前座の時には「息継ぎまで覚えろ」って教わりました。なので、ノートには、そのあたりのことも記しています。「何から始めるにしてもまずは真似から」とも教わりましたので、そっくり真似することからやりますね。あとは、しゃべる。筋だけでも、覚えている部分だけでもしゃべる。その繰り返しです。

― しゃべる練習はどこで?

家が多いと思います。

― よろしければ、小はぜさんのノートを拝見させていただいてもよろしいでしょうか。

人にお見せするほどのものではありませんが・・・。

― 小はぜノートは、いま何冊目くらいですか

いま僕、噺の数(持ち根多数)が98なんですね。1冊あたり根多2~3席なので、30冊くらいってとこでしょうか。

― 語彙も記入されるのですね

そうなんです。一番最初に覚えたのは「道灌(※)」なんですけど、その際、(柳家)三三(※)師匠に「きちんと語彙まで覚えなさい」と言われて、それ以来ずっと。「(語彙も)きみの今後に関わることだから大切に」とも言われました。 例えば「金明竹(きんめいちく)」って、道具の話が出てくるじゃないですか。(下記参照)

「わては、中橋の加賀屋佐吉方から使いに参じまして、先度、仲買の弥市が取り次ぎました、道具七品(どうぐななしな)のうち、祐乗(ゆうじょ)・光乗(こうじょ)・宗乗(そうじょ)三作の三所物(みところもん)。ならび、備前長船の則光(のりみつ)。四分一ごしらえ、横谷宗珉(よこや そうみん)の小柄(こづか)付きの脇差…柄前(つかまえ)な、旦那さんはタガヤサンや、と言うとりましたが、埋もれ木やそうで、木ィが違うとりましたさかい、ちゃんとお断り申し上げます。次はのんこの茶碗。黄檗山金明竹(おうばくさん きんめいちく)、遠州宗甫(えんしゅうそうほ)の銘がございます寸胴の花活け。織部の香合。『古池や蛙飛びこむ水の音』言います風羅坊正筆の掛物。沢庵・木庵・隠元禅師貼り混ぜの小屏風……この屏風なァ、わての旦那の檀那寺が兵庫におまして、兵庫の坊(ぼん)さんのえろう好みます屏風じゃによって、『表具にやって兵庫の坊主の屏風にいたします』と、こないお言付けを願いとう申します」

落語 「金明竹(きんめいちく)」より一部抜粋

言葉の意味、どんな道具かを知らなきゃいけない。何を伝えたいのかを考えながら覚えないと。なので、細部まで丁寧に理解して覚えるようにしています。

※ 道灌(どうかん):隠居の家に遊びに行った八五郎。太田道灌が山中で村雨(にわか雨)にあった時の様子を描いた屏風絵を見つけて…。

※ 柳家三三(やなぎや さんざ)十代目柳家小三治の弟子。名だたる落語関係の賞総なめの実力者。落語映画「しゃべれどもしゃべれども」の落語指導や、落語漫画「どうらく息子」の落語監修もする落語エリート。近年は新作など新境地の開拓も。

※ 金明竹(きんめいちく):どこか抜けていて、ぼんやりしている甥っ子の松公(まつこう)を預かることになった道具屋の主人。主人が留守のときに、次から次へと来客が。それに応対した松公なのだが…。上記のような「言いたて」(落語の中に出てくる長ゼリフ)も見どころの根多。


チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。小はぜさんの本音、素顔。そして落語観。

柳家小はぜ 独占インタビュー(1)

柳家小はぜ 独占インタビュー(2)

柳家小はぜ 独占インタビュー(3)