くがらくでは毎回。
事前にインタビュー項目をその落語家さんにお渡しして、チェックしていただいてから、当日の取材インタビューに臨んでいただいています。今回、いつものように喫茶店で待っていると「変なことを言わないように事前にメモしてきました~(笑)」と現れたのは志ん八さん。初めてのケースです。
写真を撮る際も「こんなポーズがいいですか?どんな角度から撮りますか?」とサービス精神旺盛。TVなどの撮影経験を数多くこなしてらっしゃるからですね。お気遣いが嬉しかったです。(志ん八さんはJ:COMチャンネルにレギュラー番組をお持ちです)。
取材冒頭、記者(男性)を見て「ぼく、(あなたの)似顔絵描いたことありましたっけ?」と志ん八さん。確かに「たまごの会(※)」には足しげく通い、「たまご祭り」でお客さんの似顔絵を次々と描く志ん八さんを見てきましたが、取材記者は描いてもらう勇気はなかったようで…。「髭の人は描きやすいんですよね」
志ん八さんのおかげで、いきなりアイスブレイク(※)。さすがです。にこやかなムードで取材、スタート!
※:たまごの会:古今亭志ん輔師匠が主宰する若手落語家さんの研鑽の場・定例勉強会。惜しまれつつも、すでに終了。
※:初対面の人同士が出会う時、その緊張を解きほぐすための手法。集まった人たちを和ませ、コミュニケーションをとりやすい雰囲気を作り、そこに集まった目的の達成に積極的に関わってもらえるよう働きかける技術。
衝撃でしたよね。一人の人が右向いたり左向いたりして、舞台上に世界を創っているわけじゃないですか。世界が見えますでしょ、舞台上に。
― まずは、インターネットのことなんですが。ホームページを2つお持ちですが、それはどういう感じで使い分けなさっているのですか?
「古今亭志ん八の管理釣り場」はホームページ。落語会の出演情報を掲示したり、漫画を発表している場所ですね。趣味のサイトでもあります。ここで漫画を描いて載せていたら、漫画の仕事をいただきました。シブラクの「どがちゃか」というフリーペーパーに連載が決まったんです。ありがたいですね。「シンパチネットワーク」は昔からやっているブログです。こっちはただの日記です。
― 漫画や絵を描くのは昔からですか?漫画部だったとか?
部活は野球部です。漫画を描くのは趣味です。例えば「忍者ハットリ君を何も見ないで描こうぜ」っていう競争を友達としたりとか。ナンシー関さんの「記憶スケッチアカデミー」みたいなことを、昔からの知らずにずっとやってました。小学校くらいから。僕の方が元祖じゃないかな(笑)。出鱈目な、目茶目茶な絵になるから面白いじゃないですか。
― 部活は野球でしたか
小学校時代はピッチャー、中学はセンター、高校は1年の途中からマネージャーです。練習試合はマネージャーが組むんですよ。それが楽しかったですね、自分の裁量で自由にできて。「どうせなら強豪校と練習試合したいな」と思って、PL学園や帝京高校など強い高校に片っ端から電話をかけて申し込んでました。(大阪に遠征できるぞ!)と思って電話したPL学園は当時大人気でして「2年先まで予定が埋まっている」と言われました。どこの世界も人気者はスケジュールおさえるの大変ですね。そんな裏方仕事を楽しくやっていました。
― ツイッターのアカウント名ですが、なぜ「@onigiriokure(おにぎりおくれ)」なのですか?
レギュラー番組でやっていたコントコーナー「おにぎり部長とおつぼねさん」で、おにぎり部長というキャラをやっていた時にTwitterを始めたからです。
― 志ん八さんが落語家になろうと思った、きっかけを教えてください。いつごろのことでしょうか。
はじめて落語というものを聞いたのが26歳。遅いデビューです。当時勤めていた会社のお客さんに(落語を)勧められて。で、寄席に行ったんです。その頃は予備知識が何もなく、落語家は寄席(の出番だけ・仕事)だけで食ってると思ってました。寄席以外にも落語をする場所、他にもいっぱい落語会をやってるなんて知らなかったんです。
― 聞いてみて、実際にご覧になっていかがでしたか
衝撃でしたよね。一人の人が右向いたり左向いたりして、舞台上に世界を創っているわけじゃないですか。世界が見えますでしょ、舞台上に。それが凄くて感動して。後日、その(僕に落語を勧めてくれた)お客さんに夢中になって寄席での体験談を報告して。それからですよ。寄席に通うようになったのは。で、1年位通い続けたら、今度は自分で演ってみたくなりまして。それで落語家になろうと決めました。
師匠の顔が好きで入門を志願しました。
― ブログのプロフィールには「幾つかの職業を経て」とあります。その辺を教えてください。
入門前は介護の仕事をしていました。
― 主におしゃべりを武器とするような職業、例えば営業などではなく、介護?
えーっとですね、新卒で一番最初に就いた仕事はおっしゃるとおり確かに営業です。なんでわかったんですか?(笑)。自動車のセールスマンしてました。今はどうか知りませんが、当時は飛び込み営業が新人の教育訓練の第一歩でしたから、がんがん知らない家に飛び込み営業してました。でも売れませんでしたねー。当たり前ですよねー。「二度と来るな!」って水まかれたりとかもしましたし。それでも続けてて、1000軒くらい回った頃でしょうか。ようやく1台買ってくれる人が現れて。そのお客様の名前は未だに忘れられません。Sさん、ありがとうございます。
― 当時から、お話しするのは得意で?
話が上手と言うか、適当なノリで営業(マンを)してましたね。ほわ~んとしてて。ちっとも論理的なことは言えずに、ノリだけで乗り切っちゃおう、売っちゃおうという(笑)。売れなかったなあ。
― まさしく、落語「幇間腹(たいこばら)※」に出てくる、幇間の一八(いっぱち)のようですね(笑)
※ 「幇間腹」:たいこばら。道楽者の若だんなが金と暇を持て余し、素人ながら鍼医にでもなってやろうと思いつく。人間に針を刺したくなり、知り合いの幇間(たいこもち)一八を呼び出して…
― 自分で演ってみたくなりました、の次。大勢いる落語家の中でも、志ん五師匠に弟子入りしようと思ったのは、なぜですか
顔が好きで入門しました。
― 顔?
はい。僕はローワン・アトキンソン(ミスタービーン役の英国俳優)とか、志村けんさんとかが好きなんですよ。表情豊かなコメディアン。志ん五もその手なんですよ。だから顔が好きで入門したんです。
― 志ん五師匠に入門しようと決めた後、どうやって具体的に志願したのですか
僕は落語は寄席でしかやっていないと思ってましたし、どうやって入門したらよいかもわからなかったので考えまして。ある日、末広亭には芸人が出入りする入り口があることを発見しまして。そこで出待ちをすることにしたんです。忘れもしません。サラリーマンを辞めた翌日ですよ。スーツ姿で、末広亭の裏口で待ってました。履歴書を携えて。志ん五が出てくるのを。会社はちゃんと辞めてから行きました。
待っていると、ある落語家がやって来たんです。仮にA師匠と言っておきますが。今も現役の方です。大御所です。で、そのA師匠に尋ねてみようと思って、スーツ姿で履歴書持ってる男が話しかけたんです。「A師匠!」って。そしたら、A師匠、自分に弟子入り志願に来た!と思ったらしくて、ニコニコしながら「ん?なんだい?(笑顔)」って。でも僕が待ってるのは志ん五ですから。「あのぅ、志ん五師匠はまだですか?」って尋ねたら急に不機嫌な顔になって「知るか!そんなことは!黙って待ってろ(怒)」って怒られました。それが最初の先輩からの小言です(笑)
(ここまで、志ん八さんは、A師匠の顔真似を交えつつ熱演)
ほどなく師匠が出てきまして、念願の弟子入り志願を。
― ついに。
でも最初は断られましたけどね。「うちにはもう弟子がいるから、もう要らねえ」って。でもね、馴れ馴れしく「そんなこと言わないで。いいじゃないですか、二人居たって三人居たって~。僕の話を聞いてくださいよ~」って。ははは。
― 自動車セールスマン時代の軽いノリで?
そうです。営業マンのノリと介護職時代のノリで(笑)。その後、出番終わりで出てきた師匠に喫茶店に連れてかれて、履歴書見ていただいて。まずはじめに「有名になりたいとか、ラジオに出たいとか、テレビに出たいとか思ってるなら(噺家になるのは)止めとけ」と言われました。で、話の最後に「(もし入門したら俺なんかより)かみさんと一番接する機会が多くなる。(うち帰ってかみさんに聞いてみて)かみさんがいいって言ったらな」って。
その後、「入門を許可する」という電話をもらって今に至るわけですが、おかみさんと僕は同じ大学なんですね。それで「縁がありそうね」ってシンパシーを感じてくれたみたいで後押ししてくれたみたいです。ラッキーですよね。
それとタイミングですね。タイミングも良かった。当時、兄弟子が二ツ目に上がる時期だったんですよ。つまり、師匠の身の回りの世話をする前座がいなくなる時期だったんです。それもあって「こいつを採るか」ってなったみたいで。いや、ほんと二重にラッキー!運がいいんですよ僕。
チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。志ん八さんの素顔。そして本音。
古今亭志ん八 独占インタビュー(1)