この世で一番かっこいいお爺さん、柳家小三治に出会い、憧れて。
2014(平成26)年、重要無形文化財保持者に認定された噺家と言えば、そう。柳家小三冶。この人間国宝をして「お前の、俺に対する思いは重くて熱い。そんなに見つめるな」と言わしめた噺家が、第6回くがらくのゲスト、柳亭こみちさんです。小三冶師匠を何ヶ月も追い掛け回し、その弟子である柳亭燕路師匠へ入門。身長148センチの小さなカラダから発せられる落語に対する熱量は、人間国宝の言葉が示すとおり、ものすごく重くて熱い。いま最も注目されている本格古典を追求する女性二つ目。出産直前(取材時点)にも関わらず、出演を依頼してしまいました。(取材:くがらく編集部)
― 噺家さんになろうとしたきっかけは?
学生の頃から会社員になってからも、芝居を観るのが好きでした。自分の自由になるお金を相当小劇場に貢いだっていうくらい、観まくっていました。会社員には土日の休日がとても貴重なのですが、土曜日も昼夜、日曜日も昼夜、平日も観られる日があればチケット取って、ずっと観ていました。一通りもう、観るものすべて観たなあと思っていた頃、当日券が取れなかった日がありまして。(丸一日空いちゃうな、もったいないな)と思い、友達に「今日なにか面白いの(芝居)やってる?知らない?」と電話できいてみたんです。そしたら、「(演劇じゃなくて)寄席に行ってみたらどう?」と言われまして。それが寄席に触れた最初でした。
はじめて体験する、独特の“おつ”な空間に驚いて、はまりまして。それから寄席に通いはじめました。通いつめている中で、うちの師匠(柳亭燕路)の師匠にあたる柳家小三治(大師匠)の高座を聴きまして、雷に打たれたような衝撃を受けたんです。「このお爺さんの高座がこの世で一番かっこいい、この人のお喋りをもっと聞きたい」と思って、それで、小三治のおっかけをするようになったんです(苦笑)。すぐ、落語家になろう!と決めて、会社に辞表を出しました。いきなり辞表を出したので、すごく驚かれましたが、決意は固かったですから。これが、きっかけです。
― 相当勇気のいることだと思うんですけど。
これがですね、「よく決心したね」とか「随分と悩んだでしょう」とか、言われるんですけど、まったく、そういうのないんですよね。「なるほど!私は、こういう風に生きたかったんだ!」ということが、すとんと落ちて、腹に落ちて、なんというかエネルギーが満ち満ちてきたんですよ。「出会うのは遅かったけど、出会えて良かった!」っていう幸福感でいっぱいでしたから、全く迷うことなく決めました。噺家になるということを。
― その時の小三治師匠は何をお噺しされていたんですか?
雷に打たれたのは落語じゃなく、実はマクラ(本題に入る前の世間話や小咄などのこと)だったんですよ。ひところ前に、「あの人とっても困るのよ」っていう歌(作詞:高田敏子/作曲:中田喜直)があって、その歌から小三治が、そこから発生する面白可笑しい話をしてたんですよね。大師匠は、そのマクラだけで高座を降りたんです。初めて小三治の高座を聴いた時はそうでした。初めて生で聴いた時は。驚きましたよ。そのお爺さん、その日は落語をやらなかったんですからね(苦笑)。6月下席の末広亭でしたね。落語そのものをやらないで、自分の感じる事、物事の考え方とか、曲を引用してその曲の解釈の仕方だとかを延々と喋っていて、それが誠に興味深くて、面白くて仕方がなかったんです。ネタ帳には「あの人とっても困るのよ」って書かれているはずです。寄席に通い始めて4ヶ月くらい経ったときのことです。まだその頃は、誰の弟子になりたいということは、決められずにいたんですよね。で、6月下席の小三治の高座を聴いた時に、(あ、この一門に入りたい)と、思ったんです。
― それまでは、雷に打たれる感じの人はいなかった!?
歌之介師匠(三遊亭歌之介)の漫談も面白かったですし、権太楼師匠(柳家権太楼)も、さん喬師匠(柳家さん喬)も。たくさん(わあ、すごい)と思う人はいましたけれど、小三治の高座を聴いて受けた衝撃とは違いました。なんていうか今まで得たことのない感激というか。そのマクラを聴いた翌日もまた寄席に行きました。古典落語、翌日は『出来心』だったでしょうか。他には、何をやってたかな…『鰻の幇間』だったかな…とにかく一つ一つの登場人物が、とってもチャーミングで、その噺の中の人たちと一緒にいたいなあって思ったんですよね。もう自分がそこに座っていて、そこに演者がいて、観客が座ってるっていう感覚を忘れて、登場人物というか、その噺の中に入り込んでしまって、という感じでした。この感覚はなんだろうってすごく不思議だったのを憶えています。
― 入門できたわけですね。
ところが、そんなに甘くなく、簡単ではなくてですね。燕路は燕路で(当時はまだ)「女性は噺家になるもんじゃない、落語は男の物だ」という考えを最も強く持ってる人でしたから。ですから、そこからまた、うちの師匠に弟子入り志願するというゼロからのスタートになりました。はい、ゼロから。
― 一大ストーリーですね
そうですかねえ。でも、例えば全く知らない人が、毎日自分の家に入るようになるので、そうそう簡単には入門なんて許可されませんよね。人の雰囲気って会えば何となくわかりますけど、それにしたって世の中いろんな人いますし、昔は弟子入りしてお金持って逃げちゃったなんて不届き者もいたそうですから。だから、そうそう簡単に受け入れてもらえるわけないと思ってはおりました。
― 燕路師匠に入門を許されたきっかけというのは?
きっかけはですね、うちの師匠が小三治のところに相談に行ったんですね。「こういう人が来たんです」と。すると小三治がうちの師匠に言ったらしいです。「女には落語はできないとみんな思っているけれども、できる人が出るかもしれない。その芽を摘むことはできない。(弟子に)取って様子を見てみてはどうか。ダメならクビにすればいいんじゃないか」てなこと言ったようですね。
たくさんの要素があるかと思いますけど、うちの師匠(燕路)は自分の師匠である小三治からたくさん恩を受けてるわけですよね。その恩を後輩に返していこうという気持ちを強く抱いている人です。芸人みんなそうですけど、一円もお金払わずに(ネタに作法に)すべてを与えてもらうわけですよね、師匠に。それって本当に大変なことで、みんな一円も払ったことないのに、今自分がすべて与えてもらったことで(落語家として高座に上がって)食えているという恩というのは、本当にありがたいことです。
じゃあそれをどうやって恩返ししていくか。自分の師匠には芸として高座で返すことはもちろんなんですけど、後人に返してもいきたい、そうみんな思いますよね。ですから、うちの師匠・燕路が私に言ったのは「きみが男だったらすぐに取ってた。きみが男だったら、今すぐにでも取ってるんだ」と。「俺は、落語というのは男がやるもんだと、最も思ってる人間だ。例えば『紺屋高尾(こうやたかお ※1)』だって、美しい花魁を僕がやれば、みんな想像して想像の世界の中のこととして聴いてくれる。けれど、あなたは女性だ。美しくないとは言わないけれど、そこに女性の顔がある場合に、それを(お客様が)想像で乗り越えるっていうのは難しいんじゃないかな」と。
私はその頃、会社員で辞めて間もない頃ですから、うちの師匠に普通に、生意気にも「師匠は、そう仰いますけども、私の踊りの師匠・吾妻春千穂っていうんですけど、その吾妻春千穂が身長が私と同じで148cmで、男役もすれば、花魁もすれば、どんな役も見事に演じ、芸の力でお客様を納得させます。身長が低いことも、女性であることもすべて乗り越えているんです。だから、そのように私もなりたいです」というようなことを言ったんですね。
そのようなやりとりを何度も何度も続けるうちに、うちの師匠も、徐々に私を弟子に取って育てようという気持ちになってくれたようです。おかみさん(燕路師匠の奥様)も「女であるということが理由で、やりたいことができないのは可哀想だ」と援護射撃してくれたようでして、ようやく入門が許可されたんです。
※1:『紺屋高尾(こうやたかお)』。花魁(おいらん)の最高位である三浦屋の高尾太夫と、染物職人・久蔵との純愛をテーマに据えた古典落語の名作。
チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。こみちさんの素顔。そして本音。
柳亭こみち 独占インタビュー(1)