攻めるくがらく。
過去の誰(くがらく出演者)とも似ていない、また新たなオススメ噺家さんをお呼びしました。それが、柳家さん若さんです。
秋田の高校を卒業後、上京。大船に暮らしながら、10年間自分探し。その中で落語に出会う。「ずっとレコード屋で働くわけにもいかないな」と思いながら過ごしていた。「一生これで生きていきたい」と思うものを探していた。そんな山田さんが、一生生きていきたいと思うものを見つけた。
破顔一笑。一生落語家。
10月某日、インタビュー現場に訪れたさん若さん。第一声が「さぁ、困ったよ(苦笑)」でした。文字通り、苦笑いのさん若さん。
― インタビューの経験は、これまでにないですか?
以前、東京かわら版さんに受けたことはありますが・・・。こんな苦手なことはありませんね。そういうタイプの人間ではないので。
さん若さんはとにかく謎の人だ。公開されている情報が比較的少ない。それだけに今回は貴重なインタビューになったと自負しております。さん若ファン候補のみなさんはもちろん、すでにさん若ファンの人ですら知らなかったことを今回、たくさん聞き出せたと思っています。
それにしても、くがらく史上もっとも照れ屋な方でした。一つひとつの質問に、うーんうーんと唸りながら、ぽつりぽつりと寡黙に丁寧に、言葉を選んで答えてくれたさん若さん。
その一方で、もっとも表情豊かで、大きな笑顔と真剣な表情を織り交ぜながら、身振り手振りを交えてくださったのも、さん若さんが初めてです。そのおかげでしょうか、くがらく撮影班ものりのりで、撮影カットも過去最高枚数に!釣りのお好きな、さん若さんらしく言うならば、“本日の釣果(インタビューの撮れ高)”は大漁です。
― まずは定番のこの質問から。落語家になりたいと思ったきっかけを教えてください。
30歳手前位の正月のことです。横浜に住んでる(秋田時代の4つ上の)幼なじみと毎年過ごしてたんですが、彼が急に「落語聞こうか」って言い出したんですよ。もう寝ようとしていたときでした。それが2~3年続きました。毎年正月には、彼のうちで落語を聞くのが定番になってたんです。ただ、僕はだいたいオチの前には寝てしまってました(笑)。誰の噺かって?いや、それはまったく覚えていません。年に一度の落語。お正月に聞くだけの落語。
― それからは?
年に一度、お正月に聞くだけの落語でしたけど、妙に耳に残ってたんですね。噺家口調。それで私生活で口調を真似したりしてました。意識し始めたんですね。
― その頃は、何をしていたんですか?
アルバイト生活です。レコード屋の店員をしていました。自分のしたいことが見つからなくて、何をしたらいいかわからなくて、悶々としてすごしていた頃の話です。「なにか自分のやりたいことはないか?」ってアンテナを張り巡らしていた時代。それにひっかかかったのが落語。
― なるほど
背中を押してくれたのも、その幼なじみの彼でした。「俺は落語が好きで聴く。俺は聴くだけだけど、お前なら(落語を話すことが)できるんじゃない?」と言われて、その気になったんですね。
― 幼なじみと言えば、さん若さんは秋田県ご出身ですよね
はい。僕の生まれは、ちょっと変わってまして。秋田芸術村(※)の出身です。芸術村、その村の中で生まれて育ってきました。僕自身に演技経験はありません。ただ、小さいころから演芸・演劇の空気に包まれて育ってきました。少しは役者に憧れた時期もあったかなぁ。でも、なんか違うと思っていた。そのまま劇団に入るという道もあったのですが、周囲からは(そのまま劇団に)入ってほしいと思われていましたが、僕は、その中からは飛び出て、外の世界に行きたかった。それで上京してきたというわけです。
※ 秋田芸術村:劇団わらび座の本拠地としてわらび劇場を中心に秋田県仙北市に展開するエンターテインメントリゾート施設。「毎年、わらび座では独演会をやらしていただいています」(さん若)
― 芸事のDNAが流れているんですね。なんだか、めぐり合うべくして落語に出会ったのでは?
どうなんでしょうね。とにかく、幼なじみの彼に背中を押されたのは確かです。落語なんか知らないのに。その気になってからは落語のCDを買って聞き漁りました。誰かの「子ほめ(※)」を聞いて、(おいおい!待てよ、こんなに落語って面白いのか)と驚いたり、感心したりしてました。
※ 子ほめ:仲間に赤ん坊が生まれたので、お祝いに行って、子供を褒めちぎって喜ばせて、ただ酒にありつこうとする男の噺。代表的な前座噺。
― そこで、さん喬師匠の落語を聞いた?
いや、まだです。聞き漁っている中、バイト先の落語好きな同僚に「今誰が面白いの?」と聞いたんですが、そのとき返ってきた答えが「さん喬さんじゃない?」だったんです。それで、(この人を追っかけてみよう)と。で、とにかく師匠の興行に通いました。最終的に決め手になったのは、鈴本の最終日に師匠がやった「文七元結(※)」。それにやられちゃいました。
※ 文七元結(ぶんしち もっとい):登場人物が多い大ネタ。三遊亭圓朝の創作。腕はいいが博打好きで借金のある左官の長兵衛。長兵衛の娘で、家計を助けるため(お金をこしらえるため)自ら身売りするお久。お金を失くし身投げしようとする男・文七らが織りなす一大人情噺。
最後に「文七元結」がすべてもってっちゃいましたね
― どんなふうにやられました?
とにかくCDとは違う!と。CDだと「いい噺だな」で終わり。でも生で観るとね。泣けるんですよ。泣ける。ライブの良さ。寄席の良さ。師匠の上手さ。
― やはり落語は生に限る
昔から舞台を観ていたからなのか、僕は「おもしろいからもう一回観に来よう、聞きに来よう」という風には動きませんでした。「自分でやってみたい」と強く感じたんですよね。その上、「自分にできるかな?」とも思わなかったです。「やりたい、なりたい。噺家になりたい」って。ただ、それだけで。ようやく、自分探しの答えが出た。「文七元結」がそれを僕にくれた。当時、寄席で他の人を聞いても、さん喬師匠が一番でした。いいなぁと思う方はたくさんいましたけど。でも、最後に「文七元結」がすべてもってっちゃいましたね。
― 聞いた後はどうしました?
師匠の「文七元結」を聞いたあと、まず手紙を書いて浅草(演芸場)で出待ちして渡しました。その際、「じゃ、話を聞こうか。いついつの、何時にここに来て」と。30歳前半のうちになんとかしないと(落語家になるのは)無理だろうと感じていたので、なんとか、それまでに弟子入りをしようと。で、結局34(歳)で弟子入りしました。初めてのとき、僕、ラフな格好で行ったんです。黒のスリムパンツに、革のブーツ。頭はさすがに丸坊主にしてましたけど。そしたら師匠に言われました。「ぼくは、そういう格好はあまり好きではありません」と。どうやら、ヒッピーみたいに見えたらしいです(苦笑)。なので、二回目以降は白いワイシャツを着ていきました。
― さん喬師匠とは、どんなお話を
年齢のことは言われました。遅い入門になるので。(入門が遅いから諦めた方がいいと)諭されもしましたけど、何度も手紙、ハガキでやり取りさせていただいて、その後ようやく自宅に呼ばれました。その場には兄弟子も同席して、いっしょに話をさせていただきました。それが最終面接のようなものでした。年齢も年齢なので、その場ではOKはいただけず、「初めてのケースだけども、一週間うちに通いで来なさい。それから判断します」でした。左龍兄さん(※)がまだ小太郎の頃のことです。で、一週間、師匠のうちに通って、兄弟子たちと一緒に下働きを。前座見習いのようなものですね。
※ 柳家左龍: 兄弟子。さん喬一門、2番目の弟子。
― 結果、入門を許されたと
はい。一週間目の、朝ごはんを食べているときでした。師匠が急に「じゃぁ、いいよ。とってやるよ」とおっしゃってくださって。僕はご飯のテーブル前に座ったまま「ありがとうございます」って言ったら、「ばか!そういうときは、そこ(床)に正座して言うもんだ!」って怒られて。それが初めてのしくじりですね(笑)。このことは忘れないです。5月のことです。僕は苗字が山田で、名が耕一郎。ザ・田舎みたいな名前なので、田舎っぽい名前として「さん作(さんさく)」という名前をいただきました。山田耕作という名前のつながり(日本の作曲家の名前からの連想)もあったんだろうと思います。
― 芸名をもらったときの感想は?
違和感はありませんでした。すーっと受け入れることができました。最初は「さん作!って呼ばれて、俺、ちゃんと返事できるかな」と思ってましたけど、なんのことはない、すぐできました。それまでの山田君から、さん作へ。当時は中野から東陽町まで毎日通っていましたねぇ。しんどかったですね。電車の中で立って寝るのは当たり前でしたから。
チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。さん若さんの素顔。そして本音。
柳家さん若 独占インタビュー(1)