


<はじめに>
くがらくが初めてお呼びする上方落語の落語家さん、笑福亭茶光さん。
現代的な題材やアイデア、人物描写で爆笑を誘い、お客様を楽しませてくれる一方、「笑い(落語)に対して誠実でありたい」と語る、とても生真面目でハートウォーミングな一面も。師匠に感激した某エピソードをお話しくださったときに、目のはしに光るものを取材陣は見逃しませんでした。
伝統と現代を、笑いと人情を自由な発想で掛け合わせて、いつの日かきっと落語界を代表する存在に。そんな茶光さんのインタビュー記事です。
(くがらく編集部)


うちの師匠には、華があるんですよ。あの年齢でも、すごい華が
― 落語家を目指したきっかけを教えてください
僕、もともと漫才師やったんですよ(※)。で、漫才師を解散してどうしようかなと思っていました。当時、漫才師をやっている頃に、所属が松竹芸能でしたので、上方の落語家さんと仕事する機会がありまして、落語を見聞きしていましたので、落語をやってみたいなという軽い気持ちでいたんです。
それで、(鶴光)師匠の高座とかを見に行って、うちの師匠の高座って本当にタレント性があるというか、華やかなんですよね。歳を重ねていって、70歳くらいになった時に、ああいう風になりたいなと思って。それでいいきっかけだから、ちょっと弟子入りしてみようと。そういう感じですね。
※ 漫才師時代:元・お笑いコンビ「ヒカリゴケ」のメンバーでボケ担当(ネタによってはツッコミ)。ヒカリゴケ結成前は馬王とのコンビ「馬車馬」を組んでいた
※ 笑福亭鶴光:しょうふくてい つるこう(或いは、つるこ)。六代目笑福亭松鶴の筆頭弟子。上方落語家、ラジオパーソナリティ。上方落語協会顧問、落語芸術協会上方真打。松竹芸能所属
― 他にも華やかというか、そういう方はいっぱいいたと思います。その中でも、なぜ鶴光師匠に惹かれたのでしょう?
僕はこっちの寄席(大阪ではなく東京)で観たんですけど、パーッと見た時に、うちの師匠は、ひときわ華やかですね。全然違うと思うんです、並びで観たときに。本当にうちの師匠には華があると思っています。歳がいっている、おじいさんといってもいい年齢です。それであんな華があるということはすごい。憧れの人ですね。
― 大阪じゃなく、東京に出て来ていたんですね
こっちにいました。僕、落語家の修行のことなんかまったく知らなかったんです。入門を希望した時点は、そこまでは分かってなかったんですよ。入門させてくださいって言って、その後にやっぱりいろいろ情報が入ってきまして。うちの師匠は最初、「バイトしてええ」って言ってたんですよ。はっきり覚えてるんですけど。でも蓋を開けたら兄弟子に「バイトしたらあかん」って言われまして。全然話しが違うよ!みたいな(笑)
― なるほど
そんな(エピソード)のがたくさんあります。他には、漫才師時代からやってる仕事があったんです。うちの師匠は入門した時は「折り合いつけてやってええ」みたいな感じだったんですよ。でも、うちの師匠って、ざっくばらんというか、言うけど責任取らないんですよ(笑)。だから、間に受けてしまう部分もあって、蓋を開けたら、あかんあかん!ってなって(笑)
― あかんあかん!って言ってきたのは師匠ですか?
兄弟子です。でも、それは別に兄弟子が悪いんじゃなくて。この世界では、そういうもんやったのに、僕がわかってなかったという。でも、もう、(弟子にしてください!って)言ったからには引くに引けないじゃないですか。もちろん、それを聞いたからと言って引くつもりもないんですけど。
― そもそもお笑いの世界に入ろうと思ったきっかけは何だったのですか?
僕大阪出身なので一番好きなのが(吉本)新喜劇だったんですよ。新喜劇が好きで好きで、その新喜劇を見てお笑いやりたいと思ってました。大阪って本当にお笑い番組が多くて、お笑い目指すっていうのは割と自然な流れというか、珍しくないんですよ。ただそれが漫才かコントかっていうだけで。それが吉本か、吉本じゃないのか、そういうのだけで。
こういう(パターン)の、僕だけじゃないと思うんですけど、最初、お笑い芸人目指して上京してきてお笑い始める人間ってみんな尖ってるんですよ。やるからには「自分は絶対売れる!」って自信満々で。根拠なく信じてるんですよ。「自分はダウンタウンになれる!」と思ってるんですよ。僕もそうでした、相方もいないくせに(笑)
その当時、大阪の番組でよく言われていたのが、「二丁拳銃」さんとか「千原兄弟」さんとかが東京進出して失敗してて。大阪では信じられないくらい人気がある漫才コンビなんですけど、東京行って全然売れない。で言われていたのが「大阪の芸人は2回売れないといけない。大阪で売れて、東京に行かせてもらう。そしてもう一度東京で売れる」。
だから、「はなから東京で売れた方がええやん」っていう考え方が一方でありました。それはもちろん、一定の実力がある人間が言えることなんですけど、始めたての人って、そんなことしか思わない。「俺には実力ある!東京で売れる!」と思ってしまう。で、僕も始める前に、「じゃあ俺は東京に行って、東京ですぐに売れよう!」と思って東京に行った。そんな感じです(笑)。だから(僕の芸人人生は)東京スタートなんですよ。
― すぐ事務所入りですか?それともフリーで?
フリーです。今ピン芸人(武井しもん)になっちゃいましたけど、もともとイラン人とコンビ組んでた「デスペラード」というコンビが吉本にいる(いた)んですけど、その人とかとフリーライブ、インディーズライブっていうのをやったり出たりしてました。
― 漫才師を目指して上京してから、弟子入りするまで何年くらいですか?
お笑い始めたのが何だかんだ21歳くらいです。で、入門したのが34歳、4月1日入門なんですよ。なので13年くらい経ってんじゃないですかね。落語家になって今月(2025年4月)で丸10年で、11年目に突入という。だから「馬車馬」というコンビと、「ヒカリゴケ」を足したら12年ぐらいやっているんじゃないですかね。1年ぐらいやってない時期はあると思いますので。

師匠の家がどこにあるか、誰も知りません
― なぜ「茶光(さこう)」なんですか?
「ヒカリゴケ」という漫才コンビからの入門なので⇒苔は緑⇒お茶の色⇒茶⇒「茶光」らしいです。鶴光の七番弟子になります。ちゃこうじゃなしに、“さこう”。弟子のほとんどは三文字読みですね。(※)
※ 笑福亭學光(がっこう)|里光(りこう)|和光(わこう)|羽光(うこう)|竹三(ちくざ)|希光(きこう)|茶光(さこう)|ちづ光(ちづこう。ただし、師匠は“ちずこ”と呼ぶ)
― 鶴光一門とは、どんな一門ですかね
うちの師匠は大阪に家があるので、東京ではホテル暮らしです。本当の家がどこにあるのかは弟子には教えてくれません。弟子たちは誰も知りません。誰も師匠の家に行ったことがありません。いわゆる落語家の一門が正月に勢揃いしてどうこうとか、一切ありません。
― 師匠宅に住み込みで掃除とか?
ないんですよ。そうなんですよ。ちょっとあった方が(エピソード的に)面白いんですけど、やったことがないんですよ。普通の一門なら恒例の年末の大掃除もありません。一門が集まるのは落語会しかないんです。そういう意味で個人主義という感じが強い一門ですね。あと、いいおっさんが、中年が集まってるんで(若くない年齢の弟子が多い)、家族っていうよりも個々の集まりみたいな感じですね。
はたから見ていると楽な一門とよく言われるんですけど、決してそうではなく、師匠が自由過ぎる部分を、里光兄(※)が裏でむっちゃ支えている。そんな大変な一門だと思います(笑)
※ 笑福亭里光(りこう):鶴光一門の二番弟子。落語芸術協会所属。鶴光師匠の、東京における一番弟子。
― 前座の5年間はどんな活動をしていたのですか?
前座は、弟子は師匠の家に行く人の方が、どっちかと言えば多いかもしれないですけど、基本的にはみんなは寄席(通い)なんですよ。寄席に毎日通うというのが普通なんで、他の一門の弟子の人たちとそこは一緒でした。
― 師匠に噺をつけてもらう(教わる)ときはどうなさるんですか?
それも本当に(他の一門と)一緒です。寄席で稽古です。寄席に稽古部屋というかあるので、そこに行って稽古をつけていただく。師匠に寄席で会った際に「今度これ(この噺の)稽古つけてください」とお願いしておいて、それで部屋を押さえておいて…という流れです。
チラシ掲載の文章は、インタビュー記録からの抜粋です。全文は、ここでしか読めません。ぜひ、読んで感じて知ってください。茶光さんの本音、素顔。そして落語観。
笑福亭茶光 独占インタビュー(1)